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ハヤイブログよりその1:ハヤイブログの所信表明

真面目な部

 徒然なるままに書かんと思い…。

 かように思い立ってブログを始める者たちが多いだろうと思う。かく言うわたくしもブログというものを最初に始めたときには、そのように思ったこともあった。しかし、今となっては手垢がつきすぎた疑問であろ、はたしてそれでよいのだろうかという気持ちも常に付きまとっていたのも事実である。それどころか、ブログが世間に流行の気配を見せはじめていた頃、真先に之を批判し且毛嫌いしていた過去すらわたくしは持ち合わせているのである。 

 わたしは当時、ブログなるものを一般人はもちろん有名人であってもその専門外で(有名事以外で)之を作成すること自体、その所業をおこがましいと感じることが多々あった。いやはや、まったくもってひねくれ者であるなぁ、と自嘲しつつ素直に自慢しておく、ドーヨ!。…それはともかく、何故かくのごとき印象を持ったのかといえば、所詮は大衆(マス)ごときが展開する文字表現活動などろくなものになるはずがないのであって、安直な文辞とそれに踊らされた結果としてのマスのますますの増長といった害悪のみぞ残されるものと信じて疑わなかったからである。無論今となっては偏見にすぎる過激論であることは自認している。しかしながら、有害ブログの発生や民度の低いブログの乱立を眺めていると、基本的趨勢として世間は予想通りの経過をたどってきているように認識している。

 じゃ、なんでわたくしはブログなんか懲りずにはじめるのか。2つの思いが情けない嘆きとともに存在する。

 1に、それはろくでもないもの、ろくでもない行為であることを承知した上で、焚書されても仕方ない、それくらいに思って慎重に書き綴るブログならギリギリ許しを請える程度として見逃してもらえるのではなかろうかと拝察したのである。ある人が次のようなことを言っている。「売春婦は体をさらすのだからまだよい、知識人は精神をさらしてるんだから、もっと深刻だ。」もっともな話だと思う。ちなみにこの場合の知識人とは公に意見を述べる人間のことであるが、ブログは公の場所にあるではないか。我が筆先の墨を恥じらいつつ、己への無知の懐疑を常備してこれに臨む。今日、すでに多くの場合において表現の自由がその放縦にまでいたっておるのであるから、むしろ表現の責任と選択的自由によって奪われた(カントに似非哲学的に傾倒するならば)善の可能性という自由を追求したい。こともあろうにそう思ったのである。

 2に、だからこその勇気と絶望の淵からの儚い希望、そのためである。コミニカティヴ・アニマル(意思疎通するものとしての動物)たらんとする、これが人間の本来的欲求としてある上に、歴史を紡ぐ悲運にあたりし者としての命をも伴う存在、人間はコミニュケイトすることを捨てられないのであり、またしちゃぁならんのである。その時、わたくしのかすかな甘えと、まだ死なずに生き残っているわたくしの文辞への絶望的に等しい期待の存在を予期して、ついにはかくなる小さなインティファーダを標榜し手前味噌なブログの立ち上げへと至らしめるのである。これは大事そうに言えば存在意義=善への臨みとして一段落成し得たのであり、くだらなそうに言えば自己満足の源泉にに自己満足したものにすぎない。こうして己をさらし、葛藤の昇華線の中の悪しからざる矛盾において玉砕することになったのである。

 以上2つの思いをもったときに、乱立するブログ作成者への一種の共感と軽蔑のもとに、新た且深淵においてその実は古に準えた一歩を踏み出してみる。

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