ハヤイブログよりその3:学際研究の限界と現実的な学問の営み方
今日はまともに更新しようかと思ったけども疲れてるからやめたっす(。。
というのも昨日は卒論の相談の相手をしておって体力が知らないうちにグングン減っておったようで・・・。
ところで相談を受けていて気がついたのだけども、最近の学生諸君はなかなか良い傾向にあるようで。
…だめだw やっぱ書きたくなってきたwww
現代日本史の学生諸君に限定してもあまりに顕著な性質がみられる。何かといえば全体的なテーマや先の大戦に関するテーマで卒論を書きたいという者たちが非常に多いということなのだ。もちろん、大学の卒論でそんなものできようはずもない。が、心構えとしてそれを研究したいと思っているからそれをテーマにしようとしているはずであって、そのことはとっても立派なことだと思う。
従来はどうだったかというと、伊藤博文のことについて調べたいとか、銀座の煉瓦街について調べたいとかいった調子の、正直よっぽどコアな連中にしか役に立たないようなものをやろうという歴史オタク的な輩か、もしくはとりあえずありきたりのことをやっておこうという(あたしも卒論研究当時はそうだった。)者が多いものだった。
時代はひそかに転機を迎え、今この時こそ歴史は動き出しているのかもしれない。なぜかというと、彼らの目的には、自分の研究をもってして現代日本の抱えている問題を払拭しようとするベクトルがかなり濃厚に含まれているからだ。なぜ全体的なテーマ(「近代日本軍の規律変革」等)や先の大戦のテーマ(「陸海軍一元化運動の失敗理由」等)を扱おうとするのかと言えばこうだろう。
おそらく、敗戦の理由や戦争時の日本から今日に至るまで根深く沈澱している同時代人の本質的精神問題を解釈することで戦後日本の漂流ぶりを説明づけて、その上で現代を有意義に生き実存しようということなのだと思う。
この話をもとにして話したいことが実は山ほどあるのだが、今日は気力が持たないので学際研究における専門の研究と超学的研究についてだけ述べようと思う。
歴史分野に限定して講釈をたれると、まずもっての問題は学校で習う歴史科目がほとんど無意味どころか害悪の域に達しているところから話を始めねばなるまい。自虐史観その他具体的な問題はいくらでもあるが、それ以前の一般的な教育問題が存在する。それは学際研究で明らかになった知識のうちもっともらしいものを学校現場に降下させて教えているという問題だ。つまり、通史的歴史教育というものが我が国の歴史教育の中心だが、これほど無意味極まりないものはない。
通史的教育では歴史的事実の因果関係を極端に重視して(これは実証主義史学という現在の歴史学の主流そのものである。)、その因果関係の羅列・連鎖のうちに歴史の大きな流れを見出して、多くの場合ストーリーの形で教授しようとする。歴史の大きな流れを認識させるのに別段問題があるとは言わない。しかし、実は個別の歴史的事実の因果関係をたどって歴史の大きな流れを把握することは、概ねどころかほとんど無理である。
というのも、歴史的事実の因果関係は所詮個々の歴史的事実(学校教育でよくアンダーラインを引いたりする事項の事)の因果関係にすぎない。大きな歴史の流れは、確かに歴史的事実の因果関係が鎖状につながった産物という一側面を持つが、ある時期ある時代の大きな歴史の流れは、たったいくつかの歴史的事実の経緯のみで構築されているはずがない。その歴史的事実が起きた背景には実証主義歴史学では説明のつかない複雑な同時代人の表現活動があると謙虚に構えるべきだろう。もちろん、基礎的土台として歴史的事実の因果関係を実証主義史学で明らかにする作業は必要であるが、それ以上でもそれ以下でもないのが本来の姿であるはずだ。少なくとも歴史学専門の私はそう思っている。自分の専門である歴史学的な分析のみで同時代の本質や大きな歴史の流れに近付くことができたことなど今まで一度もない。身の程をわきまえろというものだ。(怒)
では何が必要なのかというと、歴史学を最低限踏まえた上での全般的考察、すなわち解釈学である。この解釈学は全般的作業工程において歴史学という学際研究の領域を踏み越えて行われるため、自然と超学的研究の趣をもつ。ミュルダールというスウェーデンの経済学者がいるが、彼はそういう意味でトランスディシプリナリー(学問を越えていく)な研究法を唱えている。その内容はどういうものかというと次のようになるのだ。
つまり、学問同士互いに共通する説明原理を求めることである。カール・グンナー・ミュルダールは、学際研究の研究当事者が自ら己の専門領域を超えて他の専門から論理及び成果を学びとり、自らの研究分野の幅と奥行きを広げるのに役立てることを提唱した。が、他の専門領域を理解する前提が共通したものでなければ、専門領域のさらなる分化に終わってしまう。そうならないようにするには、理解するための基礎論として用いるべき説明原理を求めるべきなのだ。
なにを共通原理とすべきかの推論は当の学際研究の共通点を探すことによって得られる。一見すると学際研究はその共通点のなさによって分裂症状を期待してるかのごとくみえる。しかし、共通の経験的事実を把握しようとする試みである学際研究にあっては、必ず共通原理は存在する。それはなにか。すなわち、学際研究同士はお互いに分裂し合っているという意味で共通なのである。言葉遊びのように思えるが、その分裂の経緯は次のように説明できるのだ。
学際研究は経験的事実の一側面をのみを研究対象にしている。歴史学であれば(少なくとも現在における私学実証主義に偏りすぎた歴史学であれば)、特定の歴史的事実及びその事実同士の因果関係を史料に基づいて解明することがその基本である。しかし、歴史考証において過度にこのプロセスをのみ持ち込み、区分された時代やあらゆるものを含んだ総合的な歴史的概念を、単なる歴史的事実と誤認してかかる。つまり一つの大きな時代や歴史的現象をその「事」の「実」を単純に計り知れないという現実を否定できないにも関わらず、自分の専門分野である「歴史的事実」であると錯覚して、私学実証的な方法のみによって解き明かそうとする。すると、その似非の「歴史的事実」なるものを、本来の歴史的事実(当時の価値把握を必要としなくても人間現象として解析可能な細かい事実)の集合体、とくに歴史的事実の連鎖であると固定し、それを解き明かして歴史を考証したことにするのであるが、それはなにぶん前提が似非であるので結果も似非である。
これはいかなる現象かと言えば、我こそは諸学問の基礎であると考える自学問帝国主義なのである。なぜなら、自己の学問領域を事実の基礎次元を説明する最小単位でであると思い込まなければ、その延長線上に事実の総体を説明できるはずがないからである。たとえば、歴史的事実とその因果関係を解き明かす史学実証主義のみを基本とした歴史学は、本来はそれ以上でも以下でもない。「歴史的事実」は「歴史的」な「事実」という単面的なものであり、いくらその外見的規模が小さかろうと基礎的な「事実」そのものを全て対象としているわけではないのである。実は歴史学のなかでも自明のこと、当たり前のことをいっていて、よっぽどの総合的思想家の著作でもない限り、史料として残ったものに事実がすべてあらわれているわけがないのである。史料に基づく歴史的事実というものは、その歴史的事実の側面のうち記述があるということを保証するだけであり、その後は自分で考えるべきであるし、その思考上のプロセスにおいては、実証主義はひとつの手段でしかない。
自学問を事実認識の基礎であると僭称することによって発生するこの自学問帝国主義的学問の統合失調症は、何によってもたらされるか。それは経験的事実を人間が認識する際、感情の次に必ず人間に訪れる言葉での意味把握或いは秩序化を忘れた事によってである、すなわち、事実は言葉の意味世界によって根本的には認識されうるならば、自学問はその認識の一つの側面であり、言葉の機能としてのどれかを背後に背負っている、という認識がないために起きる。たとえば、我が偉大なる(笑)歴史学は、分化された言葉による過去と未来の秩序化という時間性に関するものであり、それには、言語学的に隣接する社会的言語(実践知を加えつつ役割に統合される社会学や、自然科学を加えつつ価値に統合される文化学)や文芸的言語(実践との間にある教訓譚や、自然科学との間にある紀行)によって説明さるべきものが含まれるのである。
結論を言えば、数学的な代物や準混沌の際で取り交わされるタイプの高度な詩的作品を除くならば、現代における総合的学問の限界水準から設定すべき基礎論は言語学に基づくべきである。事実が言語的なものならばアプローチも言語論的性格を帯びるべきで、最低限の言語学を踏まえたものであればディスコミニュケーションを防ぐことができるはずだ。
以上に基づいて実際の学際研究におけるTDを実現するには次の3つの初歩的整理をすればよい。第1に、各専門は言語学(主にソシュールからはじまる構造主義言語学で、具体的にはシステム分析を中心とした成果を受けるのが方法論的には最良だろう)の機能の分化を前提として、自己の専門がどのあたりに位置するかを確かめる。第2に、自己の学問の言語学的位置から、その励むべき基本的な分析的分野を限定し他学問を無視した拡大解釈を適用しないようにする。第3に、自己の学問の分析的成果を前提にして、これを言語学的に隣接せる学問の成果を取り入れ(具体的には大きく逸脱暴走或いは無視しないようにして)状況次第でいずれかを核として統合させる作業を行う。
このようにすれば、実りある学問が可能であると同時に、現在の学際研究をそれこそ超越するものとしての思想を確かなものにできるはずだ。学校で教えるべきはこうしたプロセスを経たものとしての、事実どころではない真実であり、またそれをまとめあげるための前提の置き方、推論の仕方、結論の導き方、人生への活かし方だろう。
本当はことの後に実生活への活かし方、ネット上でしばしば見受けられるまるで学者な人々のもつ分裂症状ををきたさないようにするための具体的な話をつづけられるし、実際のところしたいが、それはまた今度w
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